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生命力の活性化−よみがえりの摂理−
櫻井 徳太郎 (駒澤大学名誉教授)

 日本の近代柔道を創立した嘉納治五郎翁は、この道を究める神髄は精力の善用にあると断言した。そして、それを人生の教訓として遵守するよう弟子や教え子に示した。とかく剛力の人はその力にまかせて無理をしたり摂生を怠って若死にをしてしまう。そのため折角めぐまれた体力を持ちながら<いのち>つまり寿命を縮める。その弊を戒めたわけである。しかし、この警句は、単に柔道や相撲など格闘技にすぐれたスポーツマンにだけでなく、ふつうのわれわれに対しても適用されるべき格言であったことはいうまでもない。
 そこで、善用すべき精力とは何かと考えてみると、外面へまともに現れてくる体力は具体的であるために、最もビビッドに認知される。けれども潜在する心理的精神的力を無視するわけにはゆかない。いや、むしろこちらの方が根がふかくて奥行きがひろい。したがってこの領域を外すわけにはゆかない。ことに近代化がすすみ、共同体が崩壊し核家族ホームの人間疎外が深刻化した今日では、人間の精神的心理的精力の善用こそが、もっとも大きな問題となってクローズアップされてくるといっても過言ではなかろう。精力とは人間がこの世で生きていくために発揮しなければならない根源的エネルギーであるから、言葉をかえていえば生命力と置き換えてもよい。それを永続し高揚するにはどうしたらよいのか。この問題は、余りにも皮肉というべきか、急速に世界一の長寿国へとのしあがってきたわが国の最も重要な関心事となってきた。
 そこで、在来の日本人は、精力の善用、生命力の永続がどのようにして可能と考えていたのか。日常のライフサイクルのなかで、どのように生かしてきたのであろうか。その点を伝統的な民俗宗教の側から追跡してみたいと思う。
 まずムラとかマチの地域社会で主として第一次産業に拠って暮らしを立てていた頃の生き方である。筆者の幼少期ごろの農山漁村における経験にもとづく印象から割り出した姿であるけれども、暮らしの基盤は万般にわたり四季の移りかわり、すなわち自然の推移に据えおかれていた。夜が明けるとともに田畑を耕し山林の伐採にあたり、網をはって魚をとる労働に専念する。そして日が暮れると住む家にかえって休む。それが一つのパターンとなって暮らしのリズムを構成していた。当然風雨がはげしく猛暑の候となれば、休息をとり午唾の時間を設けて精力の消耗をふせぐ。それらの諸条件を巧みに考慮して精力善用の仕方を組み立て、永い一生涯を生き抜いてきたといえよう。
 水田の稲作栽培をとりあげてみても、播種期から田植え、成長期の除草や病虫害の駆除、開花、穂ばらみ期の対応、そして収穫期の稲刈り、乾燥、脱殻、精白と一連の作業が次々と設定されている。これらの作業過程は、個人の恣意により勝手に変更できるものではない。すべて植生としての水稲の発育成熟のプロセスによって定められている。それぞれのステージごとになすべき作業が定置され、労働の手順が決まってくる。その法則は絶対であって破ることは許されないのである。つまり農業をはじめ漁業や林業のような第一次産業にあっては、主に対象となる動植物の育成栽培が中心的労働となるから、四季の推移、気象現象、自然環境との付き合いが第一条件で、自然の摂理に従って、それと共生する暮らし方生き方が重要視されなくてはならない。だから年間の暮らしのリズムを示す行事暦をみると、自然の移り変わりとパラレルに進み、自然暦と互いにからみ合っている点がみえてくる。とくに田仕事のばあいは顕著である。
 雪が消えて春の陽がさし木々が芽吹くころとなれば、急いで種籾を水に浸して田植えの準備にかからねばならない。やがて種子をまく苗代の準備となる鍬入れの手順となるが、その農はじめにあたり、水口(みなくち)に田の神の依代(よりしろ)を立て、田の神霊に当年の豊穰を祈念する。いよいよ苗がのびて苗取りにかかる直前には苗代田に高い注連竹を立てて、田の神の降臨を仰ぐサオリの祭りを執行する。そして田づくり農家にとってもっとも繁忙で重労働の田植えが終了すると、山海の珍味を供えて大饗宴を張りサナブリ(田の神送り)の祝いをもよおす。水田農家が春の田植えと並んで最も力を入れるのが秋の稲刈りで、その終了後には新稲でつくった赤飯や牡丹餅を田の神棚に飾り、にぎやかな刈り上げの祝杯を上げた。ところがこれらの祝祭は、いずれも農作業の機械化によって省略され、地域社会における共同労働力提供の廃絶とともに衰退し、共同体の結衆を崩壊させる原因となった。近代化によるこのマイナスは、大きな陰を村むら町まちにおとして、活力を殺ぐ結果をもたらした。善用すべきエネルギー源を涸らしてしまったわけである。