怨霊のたたり
森 章司(東洋大学教授)
経済不況は底をうったというが、失業率は5%を超え、中小企業が続々とつぶれている。大企業もリストラが普通になって、もう誰も驚かない。ペイオフとやらで、安全と思われていた銀行預金も危なくなってきた。私のところには大した預金があるわけではないが、今のうちに引き下ろして、床の下にでも埋めておこうかと真面目に相談している。
不良債権の整理とやらで、銀行は危なくなった会社への融資を差し止めるから、ますます倒産が増える。国民がそろって預金を引き下ろすようになったら、銀行は貸し渋りが今よりもひどくなるから、倒産はうなぎ登りに増えるだろう。いやそれよりも前に、金融不安で社会は崩壊するかもしれない。怨嗟の声が街に満ちあふれている。
今、家の壁の塗替えをやっているが、工務店の資金繰りがつかないようで、前金を取りに来た。請け負わせている塗装店に支払わなければならないからというので、念のために塗装店に問い合わせて見ると、そういうお金は要求していない、支払わないでくれ、工事が終わったときに金が入らないことになったら大変だと大慌てで飛んでくる。それからその工務店は家に顔を見せなくなった。
こんなふうに恨みに恨みが重なって、ますます恨みがまん延するのではないか。地の中からも天からも、そして虐げられた人々からもうめき声が聞こえてくるようだ。そこでふと思い当たった。いやこの不景気は怨霊のたたりなんだと。
バブル景気に躍らされていたころには、使い捨てが美徳であった。だからまだまだ十分に使えるのに捨てられた物たちの、恨みが社会に溜まりに溜まっているに違いない。
普通お金というものは、物を買うときに使われた。その物は私たちの実用の役に立つものであった。お金そのものは実用の役には立たないが、それが仲介して、役に立つものがそれを必要とする人々の手に渡った。しかしバブルのお金は、決して実用のために使われたのではない。株の売買でお金が飛び交っても、それはただあぶく銭を増やすためだけのものであった。1坪の土地の値段が1億円もするなんて、馬鹿げていた。とても1坪の土地にそれだけの実用の価値があったとは思えない。要するに金のための金であった。バブルは金の亡者のうごめきの現れであった。私たち庶民にとっては紙幣であり、コインであるが、彼らには小切手の上の単なる数字であった。さぞや1万円札も恨みに思ったに違いない。もっと地道に、まともに自分を使ってくれと。
ダグラス・ラミスという人の『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社、2000年9月)という本にこんな話が紹介されている。ある東京の知り合いが初めてアメリカに行って、ワシントンDCを訪ねて帰ってきて、「大きな発見がありました。アメリカ合衆国はまだ発展可能な、発展しつつある国だということが判ったんです」と言ったそうである。ワシントンDCで車に乗って、30分か1時間ドライブしたところ、森林があった。かれはアメリカにも街のこんな近くに森林があることにびっくりして「ああそうか、アメリカはまだ発展できるんだ」と思ったというのである。
「経済発展は20世紀の一番深いところまで根を下ろしたイデオロギー」とはこの著者の主張であるが、そのために資源が枯渇し、森林が伐採されて大気は汚染された。地からも天からもうめき声が聞こえてくるのも道理である。
しばらく前には「失われた10年」という言葉が流行った。バブルが崩壊して10年も不況が続くのに、無為無策で放置されてきたというのであるが、しかし私にはちょっと違うような気がする。むしろバブルの10年の方が失われた10年であって、その時にこそ天の嘆き、地の叫びを聞くべきであった。住み慣れた土地を追われた人々の切なさを思うべきであった。金のためだけに金が動くような社会は異常だと反省すべきであった、と。
ところが未だに懲りずに、テレビにはマーケットのアナリストとかエコノミストとやらがしゃしゃり出てきて、個人消費の拡大だの、公共事業費の増大だのという議論を行っている。一国の総理大臣まで株価や円相場に一喜一憂している。あたかもマーケットは世界の進路を決定する「神の意志」に等しいらしい。だから性懲りもなく、物を買って使い捨てろ、森林を伐採して高速道路を造れというのであろうか。またぞろバブルを再現したいのであろうか。彼らには怨霊の声が聞こえないのではないか。