生きていく力
小栗 純子(中央学術研究所講師)
今年の2月から、18年ぶりに懐かしい“職場”に通うようになった。帰り新参というわけである。立正佼成会史の編纂が終わって、もう18年がたった。笠原一男先生を編纂委員長として、8名の研究者がスタッフであった。すでに2名は他界している。
このたび開祖顕彰事業の一つとして、「教団初期幹部事績資料の集成」という、新しい研究を委託された。委員長は大隅和雄先生(東京女子大学名誉教授)で、私が副委員長である。大隅先生とは、立正佼成会史の時に同じ研究スタッフとして一緒に仕事をさせていただいた。立正佼成会史の編纂事業がスタートしたのは、26年前であった。大隅先生は40代半ば、私はまだ30代初めであった。同じ教団で、同じ仕事をした人と、四半世紀を経てまた歴史の編纂の仕事をすることになった。
私は10年ほど前に両親を見送った。その後、あまりにも生産的でない雑事の処理に追われ、研究から無縁の世界に身を置いていた。しかし精神的にも落ち着き、暮らしも整った頃になっても、もとの仕事に戻りたいという気持ちになかなかなれなかった。
父が倒れ、50日後に母が倒れ、病院の二人部屋の二つのベットで枕をならべて闘病生活が始まった時、私は放送大学の客員助教授で、速水侑先生(東海大学教授)と、仏教史のテレビ番組を制作中であった。番組とあわせて教科書も執筆しなければならなかった。その他にもやりかけの大きな仕事も抱えていた。そのような中で、自分の仕事とはあまりに違う、病院や役所の手続き、一日2回の見舞い、入院費、付き添いの費用、手伝いの人への気遣い、相続税などの資金の準備、税理士、弁護士との打ち合わせ等々、を毎日こなさなければならなかった。慣れない仕事ばかりで、一日の中で何回も頭の中のフロッピーを入れ替えなければならなかった。ともかく大忙しの毎日で、いつも移動の時は走っていた。何年もの間、入浴の時間は三分以内、まさにカラスの行水のようであった。
それまでの20数年の仕事中心の暮らしで、ある程度の研究成果も出し、講義をしたり、原稿をまとめるといった仕事はできるようになった。しかし、いつのまにか自分の視野は狭くなり、論理的な思考を繰り返すうちに情感も乏しくなって、人間として基本的な“生きていく力”を失っていることを感ずるようになっていった。親の介護、親の死、家の経済などに直面したとき、自分がそれまで仕事をして身につけたノウハウが、まったく通用しないことに愕然とした。いままで自分は何をしてきたのであろうか、このまま一人で生きていけるのであろうか、そのような疑問と不安が大きく頭をもたげてきた。父母を見送り、ある程度落着きを取り戻したとき、私はすぐに仕事にもどろうとしなかった。いままで住んでいた仕事部屋のマンションを引き払い、20年ぶりに都心の実家にもどった。古い家を自分なりに住みやすく改装し、しばらく仕事をしなくてもよいよう、生活の糧も準備した。本当にわがままで贅沢な選択であり、過ぎてみるとあの何年かは人生の夏休みであった。