
ちょっと視点を変えて考えてみよう。そもそも仏の存在はいかにして確証され得ただろうか。仏の存在は、もちろん釈尊が存在しなければありえるはずもないが、しかしただ釈尊が存在すれば事足りるものではなかった点に注意しておかねばならない。釈尊が仏であるためには、釈尊を仏として出会う人の存在が必要である。この当たり前の、しかし重要な事実は、従来の仏教研究の中で必ずしも注目されていなかった。
生きることに絶望し、存在することの意味を無くしてしまった人々が、釈尊というたった一人の存在に出会うことによって、まったく新たないのちを与えられ、再度立ち上がって道を歩み始める。もはや自らを支えきれないまでに絶望した自らの中に起こった蘇生の変化こそは、ほかならぬ仏の存在の確証であり、仏という他者によってはじめてわが身に引き起こされた、稀有な復活でさえある。この根源的な体験があればこそ、釈尊を仏として拝し、それを通して仏の存在を確証することもあり得ただろう。
さて、釈尊との出会いによって起こったこの感動は、釈尊の入滅とともに消え去ってしまったであろうか。釈尊と出会えたがゆえに、いま自己自身の存在があることを思えば、自己の存在こそが仏実在の証ではないだろうか。仏に出会い、仏の存在を確信した自己の存在は、釈尊が滅してもまだ滅してはいない。そして釈尊に出会った感動は、すなわち仏に出会った感動は、いまだ釈尊に出会えぬ人にまで伝えられてゆく。仏の存在は、仏に出会った感動として、生き残った弟子のいのちを通してつぎつぎに伝わってゆくのである。
こう考えると「仏の存在」とは「仏との出会いの存在」であり「出会いの伝播の存在」であることが分かる。仏が存在するとは、けっしてものが転がっているようなありようを指すのではない。むしろ伝わりゆく運動があるかぎり存在しつづける波動のような存在をイメージしたほうが、実際に歴史の上に起こってきた仏をめぐる世界を描くのにはるかに適切である。
存在の重要な形態である波には震源がある。その震源には歴史の中の仏、すなわち釈尊の存在がある。だが波はあくまで媒体を伝わって存在しつづけるものであり、媒体を離れて波だけを取り出すことはできない。この媒体こそ法と僧の二宝である。しかしその媒体が意味を持つのは、あくまで振動を波として伝えるからこそであり、波動がなければ媒体の存在は意味をなさない。仏宝が法宝、僧宝の二宝に先立ちながら、かつ三宝が一体であると経典が示すのは、こうした事態を指しているのだろう。
このように考えるなら、仏の存在は、釈尊の入滅によって滅してしまわないことは無理なく理解できる。仏は、仏に出会った人を通して、はじめて存在しはじめる。過去の歴史の一点に、生命への振動として存在した仏は、歴史を伝播し、その中で生まれ直し、新たな形をとって継承され続けられなければならない。
こう考えるなら、仏とは、まるで持続する生命そのものであるかのようである。
◆プロフィール◆
下田正弘(しもだ まさひろ)
【1957年生】
1981年 東京大学文学部卒業
1989年 東京大学大学院人文科学研究科・博士課程修了
1989年 日本学術振興会特別研究員
1994年 博士(文学)(東京大学)
1994年 東呆大学文学部助教授
専門:インド仏教史、および仏教思想
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