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仏の存在とは
下田 正弘(東京大学大学院助教授)

 〈明日への提言〉に執筆させていただくことになったものの、これから申し上げることはけっして読者の方々へ何らかの生活の指針を提供しようとするような内容のものではない。ただ私が専門とする仏教の研究が、現実の仏教といったいどんな関係を持っているのか、それをいささかなりとも知っていただく契機となればと思っている。
 ここでは仏とは何であるかという、仏教徒にとってきわめて大切な問いを取り上げ、それを私なりに客観的な姿勢で描いてみることにしよう。客観的態度は学問にとって不可欠なものであるが、ともすれば、ただ無味乾燥な答えを引き出して終わりがちである。しかしその研究成果によって以前よりさらに豊かな理解に至らねば、客観的研究をした意味がない。そしてそれは必ずしも簡単な作業ではない。
 さて、仏とは何か。この問いに対して現代の仏教学者たちは、まず口を揃えて「仏教の開祖である釈尊のことを指す」と言う。学者ばかりでなく一般の仏教徒であってもこのことを認めない者はいないだろう。もちろん間違いであるはずはない。ところが一見客観的で十分な答えに思えるこの考えは、現実の仏教世界に当てはめたとき、大きな不都合を来たしてしまう。釈尊は2,500年前に入滅された。もしも仏を釈尊に限定するのなら、仏はもはや存在しでないことは認めざるをえないだろう。だが仏の存在しない仏教の世界とは、いったい何なのだろうか。
 仏教において三宝、すなわち仏、法、僧の存在は必須のものである。このうち、仏が教えた真理としての法、それを実践する僧の存在はわかりやすい。だが三宝の第一に位置する仏の存在を理解するのは、必ずしも容易ではない。いま述べたように仏が釈尊なら、釈尊入滅後の仏教に存在するのは法、僧の二宝のみである。実は仏教研究者たちは、実質的にそのほとんどが法・教理と、僧・教団の研究をなしてきた。その場合、仏の存在は必ずしも問われる必要はない。法、僧の二宝を研究対象とする仏教学は、仏を入滅した釈尊に限定しても問題なく成り立つのである。
 この事情は、現実の仏教徒にとってもあまり変わるところがないのかもしれない。仏とは何かという問いを抱えずとも、しっかりした教義がありそれを実践する教団があれば、個人的な信仰もそのほとんどは事足りてしまうのではなかろうか。
 だがそれでも、仏の存在を中心に置かない仏教はかつてなかった。仏は法、僧の存在に先んじて尊重されてきた。時代と地域を越えて伝播した仏教の世界を素直に観察するなら、いずこにおいても仏は実在するものと捉えられてきた。それは、仏塔や仏像、あるいは文字、さらには生まれ変わりの人など、いくつかの形象として現されるが、いずれの形であっても仏は実在し、入滅した釈尊以上の存在として表象されつづけている。
 もしも仏教の世界を客観的に描こうとするならば、たとえいかに理不尽に思えようが、仏教学者たちは、まさに仏教徒たちが振舞ってきた通りの世界を描かねばならない。そうなればいま述べたように仏は、単に歴史的に消え去った釈尊には留まらないのであり、学者たちはむしろ仏の定義を、仏教徒が作りつづけた実態に合わせて変えなければならないのである。だが、釈尊が仏であり、同時に仏は釈尊を超えているとは、いったいどんなことを言うのだろうか。
 釈尊に出会えた人の数は、その後に展開する全仏教徒の数に比すれば、まさしくゼロに等しい。統計学的に処理するなら、仏教は釈尊に直接出会ったことがない人々によってできあがった世界と言ってもよいことになる。しかしその仏教の中心に存在しつづけるもの、それは釈尊に発する仏である。ここに仏という存在を明かすヒントがある。